あらゆる学問のなかで、もっとも好き嫌いのはっきりしているのは数学ではあるまいか。数学は好きでも嫌いでもない、という中間派はかなり少ないようである。
そしてこの旗色鮮明な数学という学問が、人間を大きく二つの部類に分ける役割を果たしてきたようである。リトマス試験紙が赤か青かで酸とアルカリを区別するように、数学好きは理科系、数学嫌いは文科系、と判定しても大して見当はずれではなかった。
しかしこのことは数学という学問にとっては不幸なことであった。たしかにこのような事態を作り出した責任の一半はこれまでの数学教育の側にある。数学嫌いを作り出した原因のなかのもっとも大きなものは、ひねくれた難問であるといっても過言ではない。そしてそのようなひねくれた難問を作り出したものが明治以来衰えることなく続いてきた激しい入学試験であることもたやすく理解できよう。
露骨にいうと入学試験の本当の目的は志望者を落とすことにある。そのためにはひねくれた小意地の悪い難問をつくって、多数の素直な受験者がそこでつまづくのを待ちかまえていることになる。
それを無事に通り抜けるためには、至るところにもうけられている陥し穴にふみ込まないように用心しながら、曲がりくねった道を歩かねばならない。素直にまっすぐに考えてはワナに引っかかるので、できるだけひねくれて考えなければだめである。
だから入学試験に苦しめられた人は数学という学問そのものがひねくれて意地の悪いものだと思い込んでしまう。しかしそれはまちがいである。
数学という学問の本当の姿は素直でのびのびしたものである。ひねくれて見えるのは入学試験という歪んだ鏡に映したいつわりの姿にすぎない。
しかも、そのように素直な数学こそが実際の役に立つことを強調したいのである。人間のつくった問題はひねくれているが、自然のつくった問題はもっと単純でのびやかな姿をしているからである。
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『数学入門』あとがき
2017年10月4日